神宮外苑再開発問題については、これまで都市計画、建築学、造園学、社会思想、環境アセスメントの研究者からさまざまな問題が指摘されてきました。
今回のワークショップでは、主に環境文化史、環境倫理学、環境美学の観点から、この問題を検討しました。
ワークショップ「人文知の視点から見た神宮外苑再開発問題」
◆6月27日(火)17時30分〜20時
◆オンライン形式(Zoom)
◆参加者 139名
このページでは、当日の報告の概要を紹介しています。
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・都市の緑地開発問題を「倫理学」で斬る――公正、分配的正義、賢慮の観点から. 吉永明弘. 2023.04.06.
本日は「ワークショップ 人文知の視点から見た神宮外苑再開発問題」にご参加いただき、まことにありがとうございます。この企画は私が別のところでオンラインでお話をしたところ、それに対する反響がいくつかありまして、特に鬼頭先生から多くのコメントをいただき、また北條先生からもリアクションがございまして、そうしているうちに人文系で何か応答をした方がよいのではないかということで、急遽この企画がまとまりました。そして人文系で私が以前から知っている環境美学の青田先生と、それから環境倫理学の、今日は事務局をやっていただいている太田和彦先生に声をかけまして、本日ワークショップを開催することにいたしました。
神宮外苑再開発問題についてはすでに報道が盛んにされています。まだ足りないという声もありますが、先日は村上春樹さんが、私は反対しますというコメントを発して、さらにこの問題が知れわたったように思います。ところが6月30日には伐採が始まるのではという報道もありまして(追記:伐採は8月の予定)、非常に今山場を迎えているところかと思います。
神宮外苑再開発については都市計画、建築、造園、社会思想、環境アセスメントの研究者の方々から様々な問題が指摘されてきました。しかしその中であまり人文系の中からの発言を見受けられません。そうした中でこのワークショップでは、環境文化史、環境倫理学、環境美学といった人文系の研究者による考察と意見交換を行い、最後にフロアからも質問を受け付け、登壇者が答えるという形をとりたいと思います。
さて、この再開発のどこが問題なのかということで、これまで都市計画上の問題、緑地のあり方に対する問題、あるいは神宮外苑の歴史を考えていないとか、環境アセスメントの手続き上の問題、それからもうすでに多くの人で賑わっているし、多くの人に親しまれている場所を再開発するということの是非、樹木やそこに住んでいる生き物を軸とした生態学的な問題などが指摘されています。
私自身の問題意識は、メンテナンスをやっていくという路線もあるのに、なぜフルモデルチェンジにこだわるのか、というものです。神宮球場であれ秩父宮ラグビー場であれ、改修をしていくことで時代に合った形にチェンジしていくということもありえます。それなのに、なぜかフルモデルチェンジ型の再開発を今進めようとしている。言い方を変えればスクラップ&ビルド型で、これまであったものを壊して新しいものを作るという形です。このタイプの再開発を行う必要があるのかというのが根本的な疑問点です。
今回の基調講演的な位置づけにあたるのが北條勝貴先生の報告です。北條先生のご専門は歴史学で、環境文化史、パブリックヒストリーという分野を研究されています。ここでは先生からいただいた要旨を読み上げます。
「ジェントリフィケーションは、地域に関する集合的想起の契機を抹消し、新自由主義的価値観への馴致をもたらす行為で、惨事便乗型資本主義や祝祭型資本主義の常套手段です。そのなかで無造作に伐られようとしている樹木は、ひとつひとつがかけがえのない生命であるとともに、人びとの記憶のよりどころでもあり、想起を促すインデックスでもあります。神宮外苑地域の来歴を史料的に確認したうえで、コンセンサスなき再開発が、列島社会や人びとの心性にいかなる影響をもたらすのか、考えてみたいと思っています。」
こうしたお話を最初にしていただきます。北條先生のご論考はたくさんございます。神宮外苑に関しては築地市場からつながるものとしてとらえていらっしゃいます。『世界』に連載された「亡所考」をご覧いただければと思います。
次は鬼頭秀一先生です。環境倫理学の間で非常に有名な、第一人者の研究者でございます。先生は1990年代に人と自然との関わりに焦点を当てた環境倫理学を構想して、その後も一貫してローカルな環境倫理の議論を先導しておられます。これに続く研究者は数多くいまして、実は私もその一人です。今回は環境正義論をふまえつつ、神宮外苑再開発問題に関して「自然の関係的価値」という概念を軸に理論構築を試みるというご報告をいただきます。
次は青田麻未先生です。青田先生は美学がご専門で、環境美学や日常美学という分野を研究されています。この分野は研究者が少ないようですが、若手でかなり力強い研究をされています。主著『環境を批評する』では、環境美学の力点が自然の科学的理解から日常経験に移っていく様子を見事に描き出しております。今回は以下のキーワードをもとに都市における美的経験についてご報告して いただきます。親しみ、新奇さ、時間。この問題は空間だけでなく時間という点からもアプローチができるということですね。その他、身体的経験に関して、想像力、参与の美学、身体感性論というキーワードをもとにご報告をいただきます。
最後は私です。少し長くなりますがご容赦ください。私は都市の環境倫理という非常にテーマを狭く絞って研究をしております。というのも環境倫理学というものがアメリカで1970年代に始まった時に、そこで想定されていた自然というものがワイルドな自然なんですね。人の手が入っていない自然。ところが鬼頭先生をはじめとする日本の研究者が「ローカルな環境倫理」を展開する中で、ルーラルなところに焦点があてられることが多くなりました。農山漁村、里山とかですね。それでいいんですけれども、世界人口の半分以上が都市に住んでおりますので、都市を舞台にした環境倫理も必要なんじゃないかということで、アメリカでも21世紀に入って論じられていることもあり、私は都市に焦点を当てて研究しています。テーマとしては 持続可能性、都市における自然、都市のアメニティの三つを立てています。
持続可能性に関していえば、都市は地球環境に優しい面があります。というのも、エネルギー効率を考えると、多くの人が郊外に住んで車を乗りまわすよりも、都市に集まって住んで電車を使った方が、効率がいいんですね。だから地球環境に優しい面があるわけです。しかしその反面、都市は自立しておらず、都市以外の地域で作られている食料や資源エネルギーを一方的に消費して、廃棄物は地方に捨てているわけです。したがって都市の自給自足を考えることが必要で、自給自足は無理だとしても、できるだけ都市の中でエネルギーや食料の生産をするべきだし、廃棄物も減らしていく必要がある。これは都市生活者の責任だと思いますが、この点で言うと、スクラップ&ビルドっていうのはかなりひどいことをしている。というのも、建設系産業廃棄物はものすごい量ですよね。これは産廃Gメンとして知られた石渡正佳さんがおっしゃっているんですが、都市をスクラップ&ビルドで再開発すると、じゃんじゃんゴミが出るわけですね。戸建て住宅でも、一回解体すると、一人の人間の一生分の量のゴミの量が出るわけですよ。戸建て住宅だってこれなんですから、ビルとか公共建築物だとものすごいゴミが出ることになります。この点からも神宮球場と秩父宮ラグビー場はスクラップ&ビルドじゃなくて改修の方がいいんじゃないかと思います。
都市の自然については、この神宮外苑で大活躍されている石川幹子先生の本読んで勉強したところ、過去の都市計画では非常に緑地に価値が置かれているんですね。建物を作ってはいけない地域を積極的に作らなくてはいけないとか、今の言葉で言うとグリーンインフラを確保すべきだということが非常に意識されているのです。昔の大阪市長の関一始めという方は、永久に建築してはならない地域を作らなくてはいけないと発言しています。関東大震災で空地が多くの人の命を救ったことをふまえての発言のようですが、つまり都市の緑地を確保するにあたって、そこに建物を建ててはいけないくらいの厳しい規制が当然なされるべきだという感覚が昔の日本の都市計画者にはあったわけですね。それがいつの間にか正反対の政策がまかりとおっているように思われます。神宮外苑の樹木は都市のグリーンインフラとしてきちんと評価されるべきでしょう。
最後に、都市のアメニティを考えると、再開発をするという以上、それまでよりも環境が良くならなくてはいけないはずですよね。環境が良くなったとなればそれは成功で、悪くなったならば失敗ということになります。それは我々だけの話ではなくて将来世代にどういう環境を残すのかということまで考えてやらなければならない。新国立競技場の時もすごく大きな話題になりましたが、それでは旧国立競技場と新国立競技場は 将来に手渡すものとしてどちらが望ましいものだったか、これからでもいいので、きちんと事業評価を行うべきだと思います。
あとは私の報告の時にお話しすることにして、趣旨説明は以上にしたいと思います。どうもありがとうございました。
私からは「人と深い関わりのある自然」の保全の理念について、特に「関係的価値」の視点からこの問題を捉えてみたいと思います。
今回の神宮外苑再開発問題に関しては、神宮「内苑」は国費で造営され、「森厳荘重」を旨として、人工的に作られた森ではありますが、その後の管理も、学術的に調査を重ねながら行われてきていましたので、「神宮の森」として守るべき存在として分かりやすいのに対して、神宮「外苑」は「内苑」と一体のものとして造られたものの、「公衆の優遊」旨として献費で造営され、造営された後もさまざまな意図と人の関わりの中で存在し続けましたので、その守るべき自然の価値について「内苑」の森と比べて誤解を生む状況もあったと思います。
もちろん、その後風致地区に設定されており、開発に関しては一定の制限が設けられ、また、明治神宮という聖なる領域を守るということだけでなく、ヨーロッパの郷土保護運動とも関連し、人々にとってそれなりの価値づけが内包されていた森であったと思います。
この報告では、そのような歴史的経緯を詳しく検討するのではなく、そもそも、「外苑」の特徴にもなり、一時期はその価値や意味が軽んじられてきた、人と深く関わってきた自然の保全の理念のあり方について考えてみたいと思います。
人間と自然との関わりに関する理念のあり方については、これまで、環境倫理学の中でも中心的なテーマで議論されてきました。環境倫理学が学問分野として制度的に確立した1970年代以後の議論では、自然の価値論が盛んに議論されました。人間中心主義を克服するという時代背景の中で、人間にとって有用な恵みを与えてくるれる「道具的価値」だけでなく、自然そのものが持つ「本質的価値」が存在し、それが人間中心主義的な「道具的価値」より重要なものとして、その価値のあり方が議論されてきました。道具的価値と本質的価値は、人間中心主義か人間非中心主義かという二項対立的図式で捉えられてきました。この考えでは、自然の本質的価値は人間の介入がない原生自然のような手つかずの自然こそが本質的価値を現しており、人間との関わりがある自然は価値が低いというか、なかなか意味ある価値づけをされないまま1990年代まで取り残されてきました。私はこの時代の環境倫理の考え方の枠組みを「環境倫理1.0」と呼んできました。
1990年代頃から「環境正義」という概念が登場し、1992年にリオ・デ・ジャネイロで地球サミットが開催される頃から、自然の価値や保全を考えるのに、人間の営みという関わりのと重要性が認識されるようになり、「道具的価値」と「本質的価値」という二項対立的な形では取り残されてしまう、人が深く関わることを価値づける「関係的価値」とでもいうべき概念が注目されるようになりました。このような考え方の転換を、私は「環境倫理2.0」と呼んでいます。今日の報告では、この「関係的価値」という視点から、神宮「外苑」の自然の保全を捉え、その意味を考えてみたいと思います。
そのような関係的価値を踏まえた自然の保全の理念を考えた時に、 二つの課題が重要だと思います。一つは、「関係的価値」は人間中心主義の呪縛から解放されうるのかという問題です。人と深い関わりがある自然だから、人間がその時その時の論理で勝手に造り込んでいいのかという問題です。この問題に関しては「セミ・ドメスティケーション(半栽培)」に関しての議論を紹介し、その文脈で問題を捉えてみます。もう一つは、「自然は誰のものか?」という課題です。これは先ほどの課題とも深く関係していますが、ここでは、処分権まで内包する日本の近代的所有の概念の見直しを考えてみたいと思います。この議論は、自然の公共的空間としての意味、「コモンの再生」と深く関係しています。
環境倫理の議論に入る前に、神宮「外苑」の「風致地区」という位置付けについて少し補足的に論じておきたいと思います。1919年に都市計画法が制定されたときに「風致地区」という制度ができましたが、神宮外苑に関しては1926年に設定されています。明治神宮という聖なる領域の尊厳を守るために設定されていますが、風致地区とは、「山川草木の景乃至其等が添景を与へる趣」「伝来郷土風致の維持」が目的となっていますが、同時期に制定された「天然記念物」という制度と深い関係があります。この制度は特にドイツの郷土保護運動とも深く関係しており、「郷土」という人々のその地域での共有価値というような形での人々の価値づけや関わりということが内包された概念だということです。神宮外苑は、東京都風致地区条例に基づいていますが、その選定条件として、一番厳しい核になるA地区からそれに準じるB地区が中心になっています。ところが、今回の神宮外苑再開発計画では、2020年に計画され1年開催が遅れた東京オリンピックの国立競技場周辺の再開発計画にからんで高層建築も可能な形で緩和されたS地区への変更が行われていたことが発覚し、大きな問題となりました。このことは大変重要ですが、今回はこの問題を深く掘り下げるというより、より一般的な議論をしていきたいと思います。
1980年代までは、人間の深く関わる自然の保全ということを根拠づけることは困難でした。里山の保全については、定期的に手を入れなければならないということは伝統的にその保全に関わっている人たちにとっては当然のことでしたが、保全、管理のために手を入れようとしても伐採すること自体が自然破壊と見做されて管理する地権者の人たちや行政も困惑していたという状況がありました。この時期の自然保護の議論は、1970年代に成立した環境倫理学の枠組み(環境倫理1.0)の枠組みで考えられていました。1967年に発表されたリン・ホワイト・ジュニアの今日の生態危機には人間中心主義的なユダヤ・キリスト教的教義があるとした論文が時代を席巻し、人間中心主義への反省と克服に焦点が集まり、そのことを契機に環境倫理学の枠組みが形成されました。そこでは人間中心主義的な「道具的価値」ではなく、「自然」そのものがもともと持っている「本質的価値」が重要で、だからこそ、人間が介入することでその価値が損なわれるということで、その介入を否定し、自然の論理に任せることこそがその自然の保全の理念になりました。里山のような人の手が入った自然は介入により保全・管理をするのではなく、その生態系の論理に任せるのが重要ということで、その地域の独自の潜在植生に戻すことが保全の理念にもなりました。
人が伐採も含めて定期的な管理を行うことは、潜在植生に戻ろうとする自然の論理に反して自然を造り込むという人間中心主義的な対応でありその行為を正当化することは困難でした。それゆえ、人間と関わりが深い自然の保全の理念を立てることは困難でした。 そのような環境倫理学の考えが浸透し、グローバル・スタンダードとして認識されるようになったのには、ロデリック・ナッシュの『The Rights of Nature: A History of Environmental Ethics』(1989年刊行、邦訳『自然の権利ー環境倫理の文明史』(ちくま学芸文庫))が大きな役割をしました。学問分野としての環境倫理学だけでなく、ディープ・エコロジーや動物の解放、自然物の法的適格性など、さまざまな背景を持つ環境思想を、倫理の進化と自然権の拡大の頂点として、人間非中心主義的な「自然の権利」という形を提示したことです。東西の緊張緩和を契機にグローバルに展開していた「地球環境問題」の時代にあって、それに相応しい倫理のあり方、自然保護や環境保護の理念として確立したのです。(環境倫理1.0)
しかし、地球環境問題のグローバルな展開は、一方で、先進国が一方的に資源を使うことで発展してきた一方で、発展途上国での貧困の問題など、南北の格差の問題ををどうするかという課題や、そもそも、伝統的に自然を利用してきた先住民の環境思想の称揚と裏腹にある基本的な人権が保障されていないことで、先住民族の権利をどう位置付けるのかという問題提起にもありました。そこから、自然と人間の関係性を改めて問うような議論が出てきたのです。むしろ、人間と自然を対立させるのではなく、その関係のあり方を見直されるようになりました。そこから「環境正義」という考え方と、環境にかかわる問題を人間と自然の関係論として捉えるあり方が出てきました。このような環境問題の理念のあり方についての新しい枠組みを「環境倫理2.0」と私は呼んでいます。
1992年にリオ・デ・ジャネイロで開催された地球サミットは、先進国主導の地球環境問題の流れの一つの集大成ですが、その一方で、環境問題における先進国と発展途上国との関係をどう捉えるのか、先住民族の権利をどのようにその中で位置付けるのか(1990年12月の国連総会で1993年からの国際先住民年が制定)、がその中で提起され、議論され始めました。その後の国際的な環境に関わる取り組みの中で、「リオ+5」「リオ+10」「リオ+20」と言われているのは、この「リオ」が原点だということになります。
「環境正義(Environmental Justice)」は、環境問題の解決には、社会的公正の問題の視点が必要だということですが、そもそもがアメリカ合衆国における有害廃棄物のリスクがアフリカ系やヒスパニックの人たちに偏って存在していることからの問題提起がありましたが、リオの前年の1991年には、アメリカ合衆国で非白人系環境運動の指導者たちのサミットが開かれた時に、採択された「環境正義の原則(Princeples of Environmental Justice)」のように、人間と切り離された「自然」の権利ではなく、人間にとっての「母なる大地の聖性、あらゆる種の環境的調和と相互依存性、環境破壊を受けない権利」として、人と関わりが深い自然が規定されています。また、「土地と再生可能な資源の倫理的で公正な、責任ある使用」などと、人の基本的な営みにおける公正性が定められています。この環境正義に関しては、吉永さんなど日本の中堅の環境倫理学者によって、昨年シュレーダー・フレチェットの『環境正義』という代表的な著作が翻訳されています。(『環境正義: 平等とデモクラシーの倫理学』(勁草書房、2022年)
一方で、人と関わりが深い自然の保全の理念に関しては、1996年以後、吉永さんや私たちが「ローカルな環境倫理」という観点から問題提起を続けています。(鬼頭秀一『自然保護を問いなおすー環境倫理とネットワーク』(ちくま新書、1996年)、鬼頭秀一・福永真弓(編)『環境倫理学』(東京大学出版会、1999年)、吉永明弘『都市の環境倫理: 持続可能性、都市における自然、アメニティ』(2014年、2014年)など)
人間と自然との関係論の議論の中で最も重要なのは、「里山」に関しての議論です。1990年代初めまで、人が定期的に保全・管理をしてきた「二次的な自然」である「里山」の保全の理念が混乱していたことを指摘しましたが、むしろ、人間が基本的な営みで定期的に深く関わり介入してきた「里山」の保全については、人間と自然の関係論の展開によって、大きく注目を集めることになりました。
2000年から行われた国連のミレニアム生態系評価の中で、四つの生態系サービスの一つとして「文化的サービス」が提起されました。生態系評価の中で、「生態系サービス」というような人間との関わりが中心的に考えられると共に、人間の自然に対する関わりの様態としての「文化」ということに注目が集まるようになり、国連のプロジェクトで、「文化的サービス」として定式化されたのはある意味で画期的なことでした。
さらに、国連のミレニアム生態系評価のプロジェクトは、グローバルな評価の終了後、サブグローバルな評価に移行しました。日本では、サブグローバル評価を「里山・里海」にすることが決定されプロジェクトが進行しました。2010年の生物多様性条約の第10回締結国会議は愛知県名古屋市で開催されましたが、日本政府は、「SATAYAMAイニシアティブ」を提起しています。日本の自然の特徴をもっとも象徴的に表すものとして「里山」が取り上げられるだけでなく、今度は、人間が関わってきたあり方を普遍的に手法として提起するまでになったわけです。さらには、それまでは人間の農的な営みは、人がもともとの生態系を破壊して、栽培植物に特化して栽培しているということで、農の営みの開始は、人間の環境破壊の歴史の最初のものとして取り上げられることが多かったわけですが、田んぼの生態系は、単にイネを育てるだけでなく、多様な生物が存在する良好な生態系として捉える見方も出てきました。また、人間の介入も、自然界にあるさまざまな「撹乱」と同様、生物多様性保全に寄与しているということも保全生態学の研究で明らかにされてきています。
最近では、生物多様性の評価として、「関係的価値」を重視して捉えていくという議論が世界的に展開されてきています。その成果として、生物多様性条約の政府間科学政策プラットフォーム(IPBES)は、昨年、「自然の多様な価値と価値評価に関する評価報告書」(https://www.biodic.go.jp/biodiversity/about/ipbes/deliverables/files/JP_SPM_VALUES.pdf)を発表し、持続可能で公正な未来を実現するためには、自然に対する多様な価値観と自然の生態系サービスとの統合を可能にする制度が必要としており、そこにおける関係的価値の重要性を指摘しています。
このように、関係的価値の重要性が認識され、さらに、人間の自然に対する介入などの関わりは、かつてのように否定的なものではないということは了解されてきました。しかし、注意しなければならないのは、このような形で、人間の営みが問題は、人間の関与によって自然が保全されているからといって、その関与がすべて肯定的であるわけではない、という点です。これは、北条さんが議論されたところにも関連しています。実際、江戸時代以前の近世の間でも、自然に対する過度な影響を及ぼす文化的関わりが存在しました。人間の介入などの関わりがすべていいというわけではないのです。それでは、どのような場合に、人間の関わりは生物多様性の保全に寄与するなど自然の保全にとって意味があるものであり、どのような場合には、そうでなく、不可逆的に安定的な形にならず「自然破壊」になってしまうのでしょうか。このことは、現代的で実践的な問題であり、また、重要な環境倫理の問題として捉えられます。しかし、どのくらいの人間の介入が許されるか、という議論が十分にできていないというのが現状です。人間が関与することで生物多様性が高まる部分もある一方で、人間の過度な関わりで生態系が破壊してしまう場面も存在します。
このことを考えるために、人間と自然との関わりについてその構造について考えてみたいと思います。自然生態系は生物多様な関係性の総体ということになりますが、そこで人々は人間の営み(生業であったり、遊び仕事(マイナー・サブシステンス)であったり、子どもの遊びであったり)と関係を持っています。その営みにはさまざまなルールや社会組織などがあり、人間の関係性のシステムがそこには存在します。自然は、そのような人間の関係性のシステムとは、二つの相で関わりを持っていることになります。一つは、社会的共同性という形で、そのような共同性により、「望ましい」「管理」ということが共有されています。そして、その一方では、精神的共同性という形で、自然に対して共有価値を持つということで、「望ましい」「価値」ということが共有されることになります。望ましい価値が共有されているからこそ望ましい管理が行われて、それが文化的多様性を保証していることになります。
たたら製鉄での薪や炭の利用とか、藩が奨励して産業基盤となる陶器製造のための薪や炭の利用が、過度な自然に対する負荷になるだけでなく、しばしば、下流の住民と争いになり、結果的に禿山などになったのは、社会的共同性や精神的共同性がその地域の人間の基本的な営みから離れていったことと深い関係があります。「文化」といったときに、「誰の」文化なのかということもあり、これは環境正義の課題でもあります。
法的な意味での「自然の権利」はリオ以後に、環境正義の議論を踏まえて大きく転換していきました。当初アメリカで提起されたものは、人間と自然とを切り離して、その上で「自然」の権利を考えるものでした。しかし、1990年代の後半から新たな展開になっています。日本の奄美の自然の権利訴訟(2001年鹿児島地裁判決)は、アメリカの影響で裁判を始めたものの、原告の人たちにとっては「奄美の文化を守るため」の訴訟として認識され、それは結果として、ゴルフ場開発へ抗う論理として、「自然と人間のかかわりの権利」としての「アマミノクロウサギの権利」として闘われました。
また、ラテンアメリカでは、自然の権利が法律として整備されています。2008年にはエクアドルにおいて憲法に、Pachamama(母なる大地)の権利として、自然の権利が規定が、ボリビアでは2010年には「母なる大地の権利法」の制定されました。最近では、2022年2月にはチリの憲法草案で、自然の権利が規定されましたが、しかし9月には国民投票で否決されています。
それは、いずれも、「母なる大地」というそこでの先住民の人たちとの深い関わりがある自然を、グローバルな鉱山開発から先住民の権利を守るものとして機能しています。
リオ+20の展開の到達点として、アジェンダ2030があります。そこでは「SDGs(持続可能な開発目標)」という形で目標を定めています。最近は特にメディアでも注目され多く喧伝されています。しかし、残念ながら、この本質について十分に理解された形では展開されていません。このアジェンダ2030におけるSDGsで最も重要な概念は、「統合性」という概念です。これは17の目標がそもそもお互いに関連しあっており、相互に依存していることで、統合的に理解されなければならないということです。そもそも関連しあい、相互に依存しているものの、それぞれの目標を独立的に理解し、その目標達成を単独に考えてしまうと、ほとんどの場合、トレードオフが生じてしまいます。そのため、そのトレードオフをどのように避けるのかということで、統合的に捉えることが必須になります。そのようなトレードオフは、環境に関わるそれぞれの価値であったり、経済的な価値を独立なものとして捉えて目標達成すると、往々にして、社会的な不公正を引き起こすことが多く、それを回避しないと、17の目標の統合的な目標達成に結び付かず、この問題は、環境正義とも深い関わりがあります。
さて、これまでの議論をもとに、自然の関係的価値が重要だとしても、どこまでの介入が許されるのかということについて考えてみたいと思います。
里山の保全、管理を例にとって考えてみます。かつては、人間の基本的な営みの中で、つまり、かつての伝統文化のもとで、安定的で継続的な介入により、現在、生物多様性にとっても望ましいと考えられる里山が形成されてきました。しかし、里山をめぐる社会的状況が変化してきており、もともとあった形の人間の関わりは難しくなっています。そこで、現在の里山保全の考え方としては、もともとそこの周辺に住んで法的権利も持っている人たちだけでなく、周辺の都市住民など「よそ者」も含めた形の、新たな社会関係の構築と価値共有をしていくことが求められています。単に、生物多様性保全のために、管理が行き届かなくなったものをボランティアでやればいいということではなく、新たな社会関係の構築と、そこでの社会的共同性と精神的共同性の構築ということを意図して新しい里山文化という共有価値を創るだけでなく、それを保証する、社会関係の制度的バックボーンの構築が求められています。
とはいえ、新たな価値共有と社会関係の制度的構築だけでいいかというと、それは簡単ではなく、どのような管理をしていくべきかということについては、十分に応える学術的基盤はないというのが現状だと思います。
ただ、保全生態学的には、「順応的な管理」と「予防的アプローチ」が提起されており、それは一定有効ですが、その具体的な方法は、とりあえずやってみてからモニタリングしながら管理していくというものですので、どこまで許されるかは、結果的に事後的にしかわからないという課題があります。ただ、順応的管理と予防的アプローチを社会制度的に保証する形を作ろうというのが、里山保全管理の基本となっているといってもいいでしょう。
環境倫理学の中でこの問題をどのように捉えるべきかについて議論していきたいと思います。論点は二つで、一つは、半栽培的アプローチであり、もう一つは環境正義に基づく社会関係の構築としての所有論の見直しということになります。
神宮外苑再開発問題についての理念構築についていくつか議論していきたいと思います。
まず、今まで議論してきた、環境倫理1,0と環境倫理2.0の議論を背景に考えると、今回の神宮外苑再開発問題において、「伐採反対」という形が中心に展開しているのは微妙な問題をもたらしています。社会的インパクトとしては、「伐採反対」というバラダイムは有効であり、このワークショップの時点でも、そのための署名が20万を越えています。基本的に過度な伐採を許さないという姿勢は強いインパクトを持っているわけです。しかし、その論理に対しては「内苑」と違う自然だからとか、冷ややかに見ている人もいるだろうし、専門家として、気持ちは分かるが、その論理に入れ込めないという部分もあると思います。というのも、「伐採反対」というのは環境倫理1.0の時代のパラダイムであり、現代の環境倫理2.0の時代になると、この問題の捉え方が簡単ではなくなります。でも、現行の計画でいいのかというと、疑問を持つ方は多いと思います。現在の再開発計画は、自然科学的にも問題があります。緑地計画、ランドスケープ研究の専門家である石川幹子さんが分析したように、環境影響評価書を見てもとても科学的な正当性を持つようなものではありません。そのようなものを根拠に、外苑の新たな形の「再生」というのは到底根拠を持てるものではないと思います。
ただ、そこに対しての問題を、伐採反対の論理だけで、現在の都市開発の問題に対抗できるのかというと、そうではないだろうと思います。
「伐採反対」という論理でしか、抗うことができない問題、それに対して、もっと本質に迫る論理をどうのように構築するのか、それが環境倫理学の課題であるといっていいと思います。
例えば、神宮外苑を「文化的な資産」として捉えると、大正時代に計画されて作られた「近代的風景式庭園」を「近代日本の公共空間を代表する文化的資産」として捉えること、そしてそれを保全するという意味はもちろん、確かにあると思います。ただ、それがどの程度の範囲で共有価値として共有されるかという課題はあります。
それは「文化的資産」ではありますが、それをそのままの形で残すべきなのか、新しい時代に即応した形で、その自然に手を入れて、新たな形で再生するべきかは議論を呼ぶところだと思います。
後者の形の新たな再生というのは一つの考え方ですが、それはどのように手を入れて、新たな形での再生するべきかということと、そのことを多くの人たちと共有し、共有価値になりうるのかが問題でしょう。現状の計画では、とてもそのような議論に耐えられるような計画になっていないので、現状の計画の正当化にはなりませんし、何より、そのような新たな再生といういう価値をどのくらいの人たちが共有できるのかということになります。
さて、そのようなことを前提とした時に、環境倫理学としての理念構築のあり方について考えてみたいと思います。まず、人と深い関わりを持つ自然の保全の理念として有効な射程があるものとしては、これから吉永さんが提起されることになっている風土論があると思います。オギュスタン・ベルクさんが和辻の風土論を大変丁寧に換骨奪胎して環境倫理として議論できるものとして理論構築しているので、このアプローチは神宮外苑の再開発問題に対して、ある意味では、直接の形で答えられるものだと思います。
私としては、ちょっと別の視角から捉えてみたいと思います。これは関係的価値を考えるにあたってその前提となる問題になると思います。一つは人間にとって深い関わりがあるものの、その「自然」の位置付けについてどう考えるかという問題であり、端的にいえば「造り込む」ことについての問題です。これについては、セミ・ドメスティケーション(半栽培)として文化人類学や環境社会学で展開されてきている議論に注目して、それを環境倫理学の課題として整理してみたいと思います。もう一つは、関係的価値の「主体」の問題です。新たに形成される人間と自然との社会関係の中で、社会的共同性、精神的共同性は、誰にとっての共同性かという問題設定です。これは環境正義の問題とも関連しており、計画された将来的ビジョンが誰にとってのものであるのか、また、多くの人たちがそれを共有したとしても、そこから排除される人たちをどう捉えるかという問題になります。
まず第一に、関係的価値における「自然」の位置について論じてみたいと思います。都市計画などの設計図などをみていると、樹木がまるで生きていないオブジェのもののように描かれている例があります。この樹々が生き物であり、育っていって将来的にどうなるのかということを考えているのだろうかという疑念です。造園という庭園の設計において、よくある誤解として、人間がまるで造り込むもの造り込んでいいものとして捉えられるということがあります。ヨーロッパの近代の幾何学的な形で設計されているものであればともかく、日本においては、生きているものとして捉えられてきましたし、また、借景の思想にあるように、設計されていない周辺の環境も含めてそれを取り込むという考え方もありました。どの時代においても、これだけ科学技術が発達した現代においても、自然はまだまだわからないことも多く、科学技術の発達は人間の自然に対する無知を炙り出したということさえ可能だと思います。21世紀の現代においては自然を対象にして設計を行うということは、自然の不確実性をどのように考えるかということを前提としていたと思います。保全生態学の設計思想である順応的管理も、予防的アプローチも、いずれも、自然の不確実性を前提にした設計思想なのです。
そのことを前提にすくと、二次的自然は、確かに、人間の営みに起因する、継続的、限定的介入によって形成されるものですが、だからといって、その介入により造り込むをとを前提としていません。人間の人間の営みの必然としての介入があるとしても、自然は自然で、自然の論理で変化しています。人間と自然とお互いに関係を持ちながら共進化するものとして捉えられます。人間は、介入しながらも、自然の動態を見極めながら、その中で介入の仕方を変えていきながら対応しますし、その新たな対応に対しても自然は自然の論理で動いています。最終的に形成される里山のような生態系は、意図して造り込んだわけでなく、「結果としてそのような形になった」のです。結果的にできた自然は、人間としての価値や、人間の管理という観点から見ても、この自然は人間にとってふさわしいものとなりますし、一方では、保全生態学の視点では、生物多様性が高いものになるわけですが、それは営みをしている人間にとっても、保全生態学者にとっても、人間が意図して作っているわけではなく、自然の論理に基づいています。石川幹子さんが、今回の神宮外苑再開発問題に対して、「樹木にも尊厳がある」と発言しているのを聴きましたが、まさにそのことを端的に表した表現だなあと思いました。また、農地や里山に関しては、篤農家のように自然のことを熟知している人たちはいますが、それは自然の出方に関して経験的に熟知していたとしても不確実な状況には変わりはありません。それは造園家であっても、保全生態学や緑地計画の専門家であっても変わりはありません。
このことを考えるために重要な議論があります。セミ・ドメティケーション(半栽培)という議論です。もともとは、中尾佐助さんが栽培植物の起源など進化論的な観点から議論されたものです。しかし、文化人類学や環境社会学では、その議論をこえて、人間の生業のあり方を考え直す重要な議論が展開されています。(松井健『セミ・ドメスティケーションー牧畜と農耕の起源』海鳴社、1989年、宮内泰介(編)『半栽培の環境社会学』昭和堂、2009年)栽培技術(ドメスティケーション)は、生殖過程まで介入することで人間にとって有用な生物を得る技術です。しかし、人間と自然との歴史の中で、また、現在でも続いている営みの中で、生殖過程まで、強い介入をせず、その生物の生息域の環境を整えるなど、過度な介入はせず、半分寄生状態のような関係の中で、なるべく多くの実りが得られるような形で行動する営みがあるのです。そのような半栽培的な行為は、自然に関する知識が十分でなく不確実性の高い自然を対象にして、私たちがどのような取り組みをしていくべきかということに対して、とても大きな示唆を与えてくれます。人間が自然を完全に管理することができるという時代は20世紀で終わりました。人間の経済活動に起因する気候変動も含めて、自然の不確実性がますます高まり、今まで経験しなかったような災害も出現している現在、半栽培的な形で緑地計画を立てることが必要になってきているのではないでしょうか。保全生態学では、「予防的アプローチ」の議論がありますが、予防的アプローチの理念も事前に立てるのはなかなか難しい状況がある中で、半栽培的な形で自然と向き合い計画を立てるというのは、理念的にも必要なことではないかと思います。必要以上の伐採を抑えたイコモスの代替案などは、その視点から評価できると思います。
次に、関係的価値の「主体」の問題を議論してみたいと思います。
人間が深い関わりを持ってきた神宮外苑の自然に対して、その関係的価値の「主体」は誰でしょうか。また、これから、新たな人間社会のニーズにも対応した形で再開発計画を立てるとして、そこで再生される自然の関係的価値の「主体」は誰なのでしょうか。地権者である、明治神宮や三井不動産なのでしょうか。
明治以後に定められた近代日本の所有権の概念は、その土地を所有すれば、どのようにしてもいいという処分権まで含んだものとして捉えられています。しかし、明治以前においては、共有や総有などの考え方もあり、所有のあり方は重層的なものとして捉えられていました。藩の所有地であっても、その地に暮らしている人たちにとって「入会権」という形で、何らかの利用権は設定されており、所有と利用のあり方は重曹的であり緩やかなものでした。グローバルに見ても、日本の近代的所有権はかなり特殊だと言えます。現代の日本では、土地を持っていればどんな形の建物も建てても問題になりませんが、欧米の住宅地では必ずしもそうではありません。また、近年では日本においても、所有と利用の問題をもっと緩やかな形で捉え直そうという機運はあり、土地の所有のあり方は、建造物にしても自然生態系に関しても、公共的空間として周辺の人たちにとってもコモン(共有財)として、また社会的関係資本として捉えていくことが求められています。イギリスにおける公共的な公園緑地の多くは王室や貴族の所有するものでしたが、フットパス(歩く権利)の運動の中で、公共的空間として開放し、多くの人たちが憩うことができるものとなっています。
神宮外苑再開発問題も、明治神宮や三井不動産などの地権者が勝手にできるものではなく、風致地区にも指定されている公共空間としてのあり方は、より多くの人たちの議論でそのあり方を考えることは必要になってきています。
さらに言えば、ここには環境正義の議論も必要になります。この空間に関しては、歴史的にも関わりが深いさまざまなセクターの主体の協議や協働により今後どのように管理していくべきかということも議論していくことも必要だと思います。
最後にまとめます。
人が深くかかわってきた自然の文化遺産を今後どのように保全していくべきかは、当初の理念と、その後の時代状況に相応した形で認識されていた文化遺産の理念を継承していくことが意味を持つのは、現代のわたしたちがそれを現代の時代の中で意味があるものとして認識して初めて成り立つものであると思います。もし、その理念を大きく変えていくべきだと考えるのであれば、それ相応の時代の論理がなければならないと思います。
現在の再開発計画は、この空間を現在の社会生活における享楽的欲望の対象としてのみ捉えようとするものであり、また「主体」としても一部のセクターの利権に基づいたものであると思います。そして、緑地もその理念に則って、人間にとって利便性があるような形で「造り込んでいい」という理念に基づいています。そこは、半栽培的な視点から見直すべきではないでしょうか。また、私たちが今後どのような社会生活を送るべきか、そしてその中でこの空間がどのような意味を持つのかという反省的な視点も必要だと思います。
今回の計画は、土地所有ということを処分権まで含めた強い所有権を持つものとして捉えて、地権者の意図により「造り込む」ことが許されると考えられており、多様な人々の関係的価値が統合されるべき公共財としての緑地空間をどのように保全し再生していくべきかという視点に欠けています。このような再開発計画に抗うためには、人と深い関係があった自然をどのような理念で保全し、再生していくのかという理念が必要であり、今日の報告ではその理念を提示してきました。
人と深い関係があった自然であっても、人が「造り込んでいい」ということではなく、自然に対する人間の知見の不確実性がますます認識されている中で、「管理」も含めた人の営みと深い関係を持つ相互関係を前提としつつ、自然の論理を最大限活かした形での半栽培的な対応が必要だと思います。自然の論理に関しては、生態学やランドスケーブ研究で明らかにされる知見が重要であり、それを活かした理念的対応が必要でしょう。
自然の関係的価値の主体は多様であり、環境正義的にも、多様な関係的な価値が重視されるべきだと思います。処分権までも含むような、明治以来、近代日本で認められてきた、強い所有権は、グローバルにみても近代的所有のあり方としては特異であり、人間と自然との関係性のあり方を考えたときに見直すべきだと思います。江戸時代までにあったような重層的な所有のあり方が見直されるべきであり、公共財としての緑地空間のあり方を改めて再構築するべきである。地権者の土地所有は認めつつも、その公共的空間の利用に関しては、公共的な協議によって計画が作られ、施行されるべきで、そのための新しい公共的な協議体が必要となるのではないでしょうか。
今日は「都市公園における自然の美的意義:都市生活の時間感覚との関係」について発表させていただきます。神宮外苑を「公園」とみなすべきかは、議論の余地があるかもしれません。しかし、私自身の最近の研究関心、すなわち都市公園における自然が私たちの感性に及ぼす影響という観点から、外苑再開発の問題について考えてみたいと思います。
まず、私自身は環境美学や日常美学と呼ばれる分野を専門にしています。環境美学は、大体半世紀ほど前に英語圏の美学のなかで生まれました。当時、美学は「芸術の哲学」とほとんど同一視されており、自然美の問題は真面目に論じられていませんでした。また、この時代は環境問題の深刻化に人々の注意が向けられ始めた時代でもあります。こうした背景から、環境美学は生まれ、自然美の問題を再考しようと努めてきました。
最初は、環境美学においてはいわゆる自然環境、つまり北米的な「原生自然」が議論の対象となっていました。現在では、自然と人工的なものを峻別できると想定する見解が見直されたこともあり、環境美学の議論対象はそうした自然に限らず、都市環境も含むより幅広い環境が議論対象となっています。さらに、英語圏の議論から世界各地へと広がり、研究が進展しています。
この自然環境からより幅広い環境へと議論のシフトが進む中で、2000年代以降には、「日常生活の中でどう感性を働かせているか」という日常美学という分野も注目されるようになりました。今日の私の発表は、こうした議論の一環となっています。
さて、しかし、美学はいかにしてこのワークショップのような実践的な話題に貢献することができるのでしょうか。美学というと、なんだかものや風景の見た目について議論する分野だと思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、美学はそのような視覚的な快楽に関わり、また美を社会から切り離す唯美主義的な見方を標榜するものばかりではありません。現代の環境美学や日常美学では、私たちの感性が日常生活の流れの中でどのように働いているかに焦点を当てた議論が展開されています。
美学者は自然科学の専門家ではなく、木々の具体的な生態学的状況などについて詳しく説明することはできません。しかし今日、私は美学者として、木々と出会う際に考えること、都市という場所に生きる生活者の視点からの自然の美的な意義について話したいと思います。
まず、都市公園における自然は、どのような特性を持っているでしょうか。公園の自然は、基本的には人工的に作られた環境です。都市公園における自然は、人間が自然を切り拓いて人工的に生み出した都市という環境のなかに、わざわざもう一度呼び込んだ自然であると言えます。同じく人工的につくられた自然を含み、公園に似ているものとして、庭園があつでしょう。しかし、庭園は美的な効果を生み出すことを第一の目的としてつくられた芸術の一種で、この庭園に組み込まれた自然と都市公園の自然とは少し異なるのではないかと考えています。庭園よりも公園の自然は、より私たちの日常生活と地続きのものとして存在しているのではないでしょうか。
このことを考えるために、フィンランドの美学者アルト・ハアパラが提起した「親しみ」と「新奇さ」という二つの美的感覚を参照したいと思います。新奇さは、たとえば観光で訪れた見知らぬ町に行き、出会うものすべてが目新しく私たちの目に映っているときの、あの驚きにも似た感覚のことを指しています。観光地だけではなく、芸術作品との出会いも、馴染みのない超越的な対象との出会いという意味で、新奇さを感じる経験の一種だと思います。伝統的な美学は、こうした新奇さを感じる経験を、「美的経験」すなわち感性が導く経験の典型例として扱ってきました。
それに対して、ハアパラは日常美学の視点から親しみの重要性を提起します。親しみとは、地元にいるときに感じられるような、いわば「アットホーム」な感じです。地元の街を歩いていると、建物や音に特別な興味を惹かれたり、感動したりはしないかもしれません。しかし、地元が存在し、自分がその地元で日常生活を送るということが、私たちの日常に安定感や心地よさを与えてくれます。日々のルーティンが地元と自分の間に愛着関係を作り出しており、ハアパラはこの愛着感情を「親しみ」と呼んでいるのです。
この議論の面白い点は、同じ場所であっても観光者か地元の住人かによって、その場所との関係性が変わり、環境の感じ方が変わるということを理論的に示したことにあります。ただし、すぐさま疑問に思われるであろうことは、私たちは地元では親しみしか感じないのだろうか、ということです。
実際、ハアパラももちろん、親しみだけが私たちの日常を作っているわけではないと考えています。ハアパラは、都市的アイデンティティ、つまり都市に住んでいる人が持つアイデンティティの特徴を規定することができるのかを議論しています。アイデンティティは、私たちが勝手に意図的に、勝手につくるものであるというよりも、生活環境や出会った人々によって規定されています。アイデンティティは、変化にも開かれたものであり、つねに固定的なものでもないのです。ハアパラは、都市に住んでいる人がどのようにアイデンティティ構築をするのかを考るなかで、都市は「意味の余剰」を抱えている場所だと指摘しています。意味の余剰とは、都市という場所が数多くの人々やものごとを含んでいるという事実を指します。それはつまり、一人の人が普通に生活していても生み出せないほどの多様性を都市が含み込んでいるということです。
私は生まれてからずっと神奈川や東京のあたりに住んでいます。それでも東京のなかには、いまだに知らない場所がたくさんあります。私にとって比較的親しみのある渋谷のような街でも、日々、目まぐるしい速度で都市のありかたは変わっていきます。これはつまり、都市という場所は新しいものが絶えず存在し続ける場所であるということです(都市に限らず、どの場所も同様にこの種の変化に実際には絶えずさらされていますが、今日はその問題には立ち入りません)。
つまり、都市という場所は、住んでいる期間が長くなるほど、その場所が日常の場になって親しみが感じられるようになるというだけでなく、新たな発見の余地、すなわち新奇さを感じる余地を残し続けている場所と言えます。新たな発見というのは、比較的ポジティブなものだけでなく、恐ろしさや脅威を含んでいることもあります。そういった意味で、都市での日常生活はある種の不安定さを抱えているとも言えます。
都市の変化は建築物の誕生など空間的な変化だけではなく、都市での時間の流れも新奇さを生活者に対してもたらすのではないでしょうか。この時間という観点から、都市のなかで生活者が自然と出会うことがどういう意義を持つのか、考えてみたいと思います。
私たち現代人は、時間は前に進んでいくもので、戻ってくるものではないという強いイメージを通常抱いているでしょう。しかし、直線的な時間の捉え方や、不可逆的で前に進み続ける時間の捉え方をするのは、近代社会の特徴であると指摘されています。さらに重要なことに、都市の時間や近代社会の時間は、私たちが自然からどんどん阻害されていくことによって獲得された、ある種私たちにとっては「不自然な」時間の流れであるということです。都市の時間の流れは必ずしも自然なものではありません。そこに住むことに慣れ親しんだ人々でさえも、その時間の流れが自分には馴染まない(=親しめない)ものに感じられることがあるでしょう。スケジュールに追われ、より多くの利益や成果を生み出すことが求められる社会のあり方がそれを助長しています。そのため、私たちは、直線的で不可逆的な流れから抜け出す時間、つまり余暇を必要としていると言えます。
しかし、余暇は容易に都市や近代社会の時間の流れの中に回収されてしまいます。私たちはこれを意識的に取り戻さなければならないのです。どういうことか。國分功一郎も指摘しているように、資本主義社会では余暇休息も、労働を効率よく回すために取られるべきものと考えられています。その意味では、放っておくと余暇さえも、労働の一部のようになってしまっているかもしれないのです。私たちの余暇までもが知らず知らずのうちにコントロールされてしまうような危険性があると言えます。
都市公園においても、すでにこのような事態は生じ始めていると言えるでしょう。外苑再開発計画においても、ショッピング施設やホテルといった「消費のための空間」が設けられています。こうした状況で、私たちが都市の時間の流れから切り離されて余暇を過ごすはずだった公園も、結局は都市的な時間の流れに組み込まれてしまい、私たちにとっての逃げ場ではなくなってしまいます。そのため、余暇の時間を都市生活の時間の流れから切り離すことの重要性を理解する必要があります。そして、この時間の切り離しという観点からみたとき、都市公園の自然は私たちにとって非常に重要な存在となるのです。
たとえば外苑の場合を考えてみましょう。ここでは樹木を伐採するかどうかが一つの争点になっています。植物の価値について語る際、よく「みどり」という言葉が使われます。しかし、「みどり」という言葉を使い続けていると、樹木の持つ色という視覚的な特徴にばかり意識が向けられてしまうかもしれません。そうすると、単純に、みどりの総量が多ければどんな木々がそこにあってもいいという話になるでしょう。この問題を考えるためには、樹木が持つ美的価値を広い意味で捉えることが必要だと私は主張します。
そこでキーワードとなるのが、身体です。都市的な時間ではないものが存在するということを頭で理解することは可能ですが、それを実際に感じて自分の生活に組み込むためには、私たち自身の身体を通じた経験が必要となります。環境美学・日常美学の文脈では、身体の役割の見直しは急速に進められています。ここでは、(1)想像力、(2)参与の美学、(3)身体感性論という三つの視座から身体と時間、そして自然の関係について考えます。
(1)想像力
想像力とは少なくとも美学の文脈において、身体の刺激と精神的に考えること、つまり身体と精神の二つの要素を媒介する能力として重視されています。イギリスの美学者エミリー・ブレイディは、美的経験における想像力のはたらき方をさまざまな観点から検討していますが、そのなかで彼女は「増幅的想像力」という想像力のはたらき方を提示しています。
この想像力について、ブレイディが挙げている例をみてみます。海辺で滑らかな小石を見つけたとしましょう。しかし、その滑らかさは長い時間、波によって削られて獲得されたものだと知ると、今目の前にある石だけではなく、過去の石の姿や、その最初の姿から今の姿になるまでのプロセスを創造的に知覚することができます。想像力は、今目の前にあるもの以上を私たちに与えてくれるものなのです。
この例は樹木についても言えると思います。例えば神宮外苑の場合、創設時から植えられていた木が残っているとすると、それは私たち一人の人間の一生を凌駕する時間を過ごしてきています。この木々との出会いを通じて、私たちは過去の時間を創造的に知覚し、それを今の時間に組み込むことが可能になるのです。
(2)参与の美学
次に考えたいのは、参与の美学という考え方です。これは、アメリカの美学者アーノルド・バーリアントが提唱したものです。彼によれば、私たちはただ環境を目で見るだけではなく、身体そのものを環境のただなかに置き、そこでさまざまな活動をすることを通じて、自分と環境との連続性を味わっています。この連続性の感知にこそ、環境の美的経験の意義があると彼は考えています。自然と環境を切り離し、自分を観察者の側に置くのではなく、身体が環境のなかに存在して、私の体が環境の一部であると感じることこそ、自然経験の魅力があると彼は考えているのでしょう。
参与の美学のもとでは、樹木の美的な良さは目で見てわかる部分だけでなく、五感やその枠を超える感覚を用いて身体全体をその場所に浸すことによって得られる経験の質が重要です。自然と連続することによって、ふだんの日常生活の流れとの連続性を断ち切ることができるという価値が、この樹木への参与の経験にはあると考えられます。
(3)身体感性論
さらに、身体感性論という考え方に触れたいと思います。これはアメリカの美学者リチャード・シスターマンが提唱しているものです。この立場のもっとも重要なポイントは、私たちの精神生活は身体による経験と切り離されるものではない、ということです。私たちは日常の流れのなかで自分の身体の存在を忘れがちです。スケジュールに追われ仕事を遂行するなかでは理性的な思考に価値を置きがちですが、身体を通じた感性的な経験は私たちの生活の質を考えるうえで非常に重要です。
シュスターマン自身はヨガなどの身体を訓練するプログラムの例も挙げていますが、自分自身が自分の身体を内観する、つまり自分自身の身体を経験の対象にすることの重要性を提起しています。これを習慣化することによって、私たちの生き方自体が変化すると彼は期待しています。樹木と過ごす時間についても、参与の美学と身体感性論を連動させることで、見えてくるものがあるかもしれません。つまり、樹木との連続性を感じる時間は、私たちが自身の存在や身体をもよく理解し、忙しさに絡め取られない生活時間を過ごすためにも重要な役割を果たしていると言えるかもしれないのです。
以上の考えにもとづくと、外苑の再開発についてなにを言えるでしょうか。ニュースなどでは、今回の再開発について、「古い木を切るけれど代わりに植えるので結果的に本数が増える予定だ」と報道されています。しかし、木を含む自然の価値というのは、単純に量のレベルでのみ担保されるものではないということを、この発表を通じて考えてきました。
私たちが都市のなかで生きていくためには、ストレスフルな時間の流れからの切断の瞬間を組み込む必要があります。そうした都市から切断され、自然へと接続される時間があってこそ、日常生活のルーティーンを遂行することが可能になるのではないでしょうか。都市生活の時間感覚という観点から考えると、都市のなかの自然は私たちの感性に働きかけることで、日常を生きる重要な一要素になっているのです。
この視点で考えた時、外苑の木々が危機に瀕するということは、先人の働きかけによって私たち一人ひとりの人生のスケールを超える時間を生き抜いてきた自然と出会う機会を逃すという意味で、私たち自身の危機とも言えます。その出会いは私たちの身体にとって重要な経験をもたらします。それを排除し、この場所を壊して、都内にすでに無数にある消費のための空間を増やすことが、私たちの人生にどのような影響を与えるのか、真剣に検討するべきだと思います。
場所と風土という視点から見た神宮外苑再開発問題:吉永明弘
私の発表タイトルは「場所と風土という視点から見た神宮外苑再開発問題」です。最初は「高層ビルとららぽーと」というタイトルを考えていましたが、もう少しかっちりとした名前に直しました。内容的には高層ビルと「ららぽーと」のような商業施設を神宮外苑につくることをどう考えるかということです。
神宮外苑再開発に関する懸念としては、これまでの環境が損なわれる、典型的には樹木が伐採されるとかイチョウが枯れるおそれがある、ということがあるわけですが、もう一つ生じている懸念の声として、新しく創出される環境が望ましいものなのか、ということがあります。これはいわゆる「まとめサイト」で見られるのですが、新しくつくられる商業施設のデザインが「ららぽーと」のようだという批判があるのです。また、計画されている高層ビルについては、こんなにたくさん建てていいのかという批判があります。
ではその高層ビルや「ららぽーと」のような商業施設は一体どこが悪いのか、ということを、ここで考えてみたいと思います。 参考にするのは人文地理学あるいは文化地理学と呼ばれる分野です。他の先生方のご報告の中でも名前が挙がっていましたが、トゥアン、レルフ、ベルクという人たちの議論をご紹介しながら、話を進めていきます。
まずイーフー・トゥアンという人。この人は人文学の権化のような人で、博覧強記でいろんなことを書いています。そのなかで「トポフィリア」(場所愛)という言葉を出しているんですね。場所愛というのは人間が場所に対して抱く愛着のことです。そして人間はそのいかなる場所でも愛着を持ちうるわけです。トゥアンはフランク・コンロイという人の例を出しています。この人の愛着の対象はガソリンスタンドです。自伝のなかで、「十三歳で壁にもたれて座っていた時、そこは素晴らしい居場所だった。ガソリンの良い匂い、出入りする車、空気用ホース、背後でざわめく半ば聞こえる音――これらが、音楽のように空気にまとわりつき、私を幸福感で満たしたのだ」と書いています。ガソリンスタンドに座って人や車を見ていたり音を聞いていたりするのがとても幸せだった、という一節を引用しているんですね。人間はいろいろな場所に愛着を持てるわけです。そういう点で言うと、高層ビルや「ららぽーと」を批判する声もありますが、他方で高層ビルが好きな人もいるし、「ららぽーと」が好きな人もいます。そこから、人はどこにでも適応できてしまうわけで、何をつくってもそのうち適応するだろう、とも言えてしまうわけです。
トゥアンは経験の多様性を重視して、いろいろな人がいろいろな場所に愛着を持つことを示していきます。それに対してエドワード・レルフという人は、『場所の現象学』のなかで、「没場所性」という言葉を提示します。この人は経験の「質」を問題にします。場所に対するいい加減な態度とちゃんとした態度がある、偽物の態度と本物の態度があると言って、偽物の態度によって生まれる場所は「没場所性」になる。それは「意義ある場所をなくした環境と場所の持つ意義を認めない潜在的姿勢の両者を指す」。つまり、いい加減な場所づくりをするとその場所らしさが失われるということです。そのときの、「場所らしさ」とは何なのか。その「場所らしさ」を気候条件に求めた人物が、「風土」という言葉を流行らせた哲学者の和辻哲郎です。
和辻の『風土』という本は、気候が人間の文化や民族の性格に大きな影響を与えているということを語った本です。同時に、各地の「場所らしさ」を決めているのも気候条件だと述べています。和辻が『イタリア古寺巡礼』という本の中で書いているのですが、イタリアを旅行して、時々ここは日本らしいと感じるところがある。そしてそこには苔が生えているんですね。苔が生えているのを見ると日本らしいと感じる、ということは日本らしい風景の根幹には「湿気」があると和辻は考えます。そこからその「場所らしさ」を決めている大きな要因は気候だという発想が出てきます。
和辻の風土論を批判的に継承したのが、オギュスタン・ベルクです。この人は『風土としての地球』という本のなかで、和辻の議論を批判しながら、自らの考えを述べています。その場所らしさを決めている要因は気候条件だけではなく、人間の営みによる影響もかなり大きい。ただし人間の営みというのは、その気候に適応しようとする営みである。それがその場所らしさを形成している。とベルクは考えます。気候が文化を決定するという考えを「環境決定論」と言いますが、ベルクは「環境決定論」ではなくて「通態性」なのだと言います。気候の影響を受けて人間がそれに適応して文化を作ると、その文化によって環境が改変される、その改変された環境にまた適応していくという「行ったり来たり」によって、その場所らしさが生まれるというのです。その地域の自然条件とそこで暮らす人間の活動の相互作用によって風土(場所らしさ)が形成されるということです。
そこからベルクは「環境整備の規範」というものを出してきます。その部分を引用します。「A)風土の客観的な歴史生態学的傾向、B)風土に対してそこに根を下ろす社会が抱いている感情、C)その同じ社会が風土に付与する意味、これらを無視するような環境整備は拒否するべきである」。
規範というのは倫理とほぼ一緒ですから、これは風土という観点からの環境倫理だということができます。このA)とB)C)は少し観点が違っていて、B)C)は、その風土に対する住民の感情や意味づけですが、A)の方は、事実としての歴史、こういう経緯があったということと、それから自然科学的な、生態系の情報ですね。しかし近年では、自分が住んでいるところの歴史や、自然の特徴をみんなが把握しているとは限りません。そこで桑子敏雄先生や亀山純生先生といった人たちは、むしろ専門家がそれを明らかにすることが大事なんだと、みんな知らないのだから専門家がそういう風土の客観的情報を知らせる必要があると述べています。今回の神宮外苑再開発問題の中では、石川幹子先生や藤井英二郎先生によって、地域の歴史や文化、樹木や建物の履歴などが明らかになり、多くの人に知らされたと思います。まさに専門家の役割を十分に果たしたといえるでしょう。そうして明らかになった歴史的な事実に加えて、現在の緑地としての意義もあると。ヒートアイランド対策も含めてですね、現在の生態学的な意義がある。それから近隣に住んでいる人たち(定住人口)と、そこを訪れる人たち、観光客(交流人口・関係人口)ですね。それらの人たちが神宮外苑にどういう感情を抱いているか、どういう地域に住んでいると理解しているか、何を求めてここを訪れるか、それらすべてを考慮しないといけない、そういうことを無視するような環境整備は拒否されるべきだ、というのが、ベルクが示した環境倫理なのです。
これは今回のテーマである人文知、その研究である人文学が具体的な環境倫理を提示した例として重要だと思います。もう一つ、ベルクが言っているのは、「尺度」ということです。環境整備においては尺度を大事にしましょう、釣り合いを守って節度の感覚を大事にしましょう、と言うんですね。都市計画者は「尺度を勘違いしないために地図と国土とを、実験室と現地とを粘り強く関係付けること」が大切だとベルクは言っています。この観点からすると、多くの人が、高層ビル群はこの地域に建てていいんだろうかと考えている、これは尺度をまさに問題にしているんだと思います。
まとめると、「ららぽーと」的な商業施設自体が良いか悪いかは措いて、ここに作るべきなのか、この地域の歴史とか生態系と何の関係があるのか、それからここにたくさんの高層ビルを作っていいんだろうか、その尺度の問題、それらを多くの人が疑問視しているのだ、ということになります。ネット上で嘲笑されたりしているのは、軽薄なように見えるけれども、実は風土論の観点からは重要な点を突いているように思います。結論としては、再開発を行う場合であっても、神宮外苑という場所にふさわしい建物が計画されるべきで、それは地域の歴史や自然の特徴を損なうものであってはならない、ということになります。仮に再開発を敢行する場合にも、実は石川幹子先生や他の建築家の方々がもっといい案(樹木伐採の少ない案)を出しているんですよね。再開発を批判すると代替案を出せと言う人がいますが、もう出ているんですよね。そういう観点から、開発をするならより風土や場所を重視した案で、するべきではないでしょうか。最も風土を守るやり方は、既存の樹木や建物をできる限り残すことでしょうね。どうもありがとうございました。